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トム・オーバーハイム
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Oberheimは、MOOGとともに誰もが知っているシンセサイザーの代名詞。しかし、Keyboard誌での連載やドキュメンタリー映画等を残したボブ・モーグ博士に対して、トム・オーバーハイム氏が如何なる軌跡でそのオリジナリティ溢れるエレクトロニック・デバイスの開発に着手し、今もその歴史的なサウンドで数多くのミュージシャンを魅了する「オーバーハイム・シンセサイザー」の製品化に至ったのかはあまり語られていない。また多くの人々は、彼がMMA(MIDI Manufactures Association)の第1回会議の議長としてライバル関係だった米国各社を取りまとめ、今日のMIDI発展の礎を築くべく奔走した人物だったことも知らないかもしれない・・・。そこで、エムアイセブンジャパンでは、トム・オーバーハイム氏の書き下ろしによる「自伝」を掲載。モーグ博士が鬼籍に入られた今、電子楽器、電子音楽の世界における唯一の「語り部」であるトム・オーバーハイム氏による物語は、電子楽器愛好家、電子音楽愛好家、音楽ファンにとって貴重なノンフィクション・ストーリーとなるでしょう。

        

 ウィチタへ着いてからは、カンザス州立大学で出会ったアーティストで、大学院生でもあった友人のところへ寄宿させてもらいました。以前、彼のためにヒースキット社製の組立ハイファイシステムを作ってあげたことで、親身になってくれたのだろうと思います。当初のプランでは自立して生活の拠点を構えるつもりでしたが、結局それは実現に至らなかったのです。アーティストの彼には数人のアーティスト仲間がいて、全員がウィチタ州立大学で芸術を専攻する学生だったためとても親しくしていました。

Tom Oberheim

 ある日、その中のひとりから「カリフォルニアに引っ越すことにしたんだけれど、一緒に来るかい?」と誘われたのです。私の中にあった大学復帰へのいろいろな計画はその時点できれいさっぱり消え去り、彼らと一緒に行くと即答してしまいました。なぜ、私がこんなにも簡単にカリフォルニア行きを決意してしまったかというと、その理由のひとつはダウンビートという雑誌の広告です。その広告はハモサビーチにあるライトハウス・カフェのもので、バド・シャンクやボブ・クーパーといった有名なウエストコーストのJAZZプレイヤーが演奏するというものだったのです。入場無料と記載されているのに飛びつかない訳はないですよね。「なんだって。こんな著名なJAZZプレイヤーの演奏をタダで見られるなんて!」 もちろん私は、あの不評を買っている「最低2ドリンク」という仕組みを後から知ることになるのですが・・・。

ロッキード社の求人に応募しフォトラボでの職を得る

 1956年秋、カリフォルニアに向けての出発が近づくと、幾つかの理由からそのうちのひとりが抜け、私たち2人はウィチタを後にし(1956年の7月20日頃だったと思います)、カンザスの竜巻の爪あとを間近に眺めながら西に向かいました。

 旅行では、いろいろな場所を経由するなかで(友人がアーティストということもあり)ニューメキシコ州のタオスを訪れました。私たち2人はその当時のタオスに存在した美術作品に驚嘆すると同時に、度肝を抜かれたといっても過言ではなかったです。それは、例えるなら巨大なコダクローム式フィルムのプリント印画紙のような油絵です。タオスを後にしてミード湖、セコイア国立公園、そして相棒の親戚の住むサンフランシスコへと旅を続け、私の最終目的地はロサンゼルスだったので、翌日の1956年7月25日にはL.A.に向けて南下するために、ひとりサンフランシスコを後にしました。

 ロサンゼルスに到着した時のポケットの中の所持金は10ドル。そのため、翌日にはロッキード社の求人に応募し、ずっとマンハッタンにあるカメラ店で働いてきた経歴から、すぐに同社のフォトラボでの職を得ることができたのです。

 その当時、ロッキード社はプリント基板を製造するのにフォトラボを使っていて、フォトレジストや塩化第二鉄といった諸々の事柄にすぐに精通するようになりました。しかし、私にとってはたまらなくつまらない仕事だったため、ロサンゼルスでの生活に落ち着きを取り戻すと、すぐにもっとおもしろそうな仕事はないかと職探しを始めたのです。

NCRで製図技師として採用されデジタル・コンピューター設計にハマる

 それから数ヶ月後の1956年12月、ロサンゼルス・タイムス紙に掲載されたナショナル・キャッシュ・レジスター社(NCR)の製図技師見習いの募集広告に目がとまりました。カンザス州立大学では一学期に製図単位を取っていたので、その募集広告に応募しNCRでの職を得ることができたのです。

 国内、国外を問わずNCRは全世界的にキャッシュ・レジスターやそれに関連するビジネス機器ではとても名が知られていて、私が製図技師として採用されたのはNCRで新設のエレクトロニクス部署でした。NCRは西海岸で最初にスタートしたコンピューター会社のひとつであるコンピューター・リサーチ・コーポレーション(CRC)を買収することによって新興のデジタル・コンピューターという新領域に進出することが決まっていたからでした。NCRが買収する前に、CRCは真空管を使ったコンピューターやコンピューター向けのシステムを既に幾つか製造していたのですが、NCRは一足先にNCR304というトランジスター・コンピューターを設計中だったのです。

 このデジタル・コンピューター設計という分野やそれに関連する事項に、すぐにどっぷり漬かってしまいました。もちろん安月給の平の製図技師でしたが、まるで飢えた犬のように、二進演算や論理設計だけでなく、粗削りのプログラミングにまでハマってしまったのです。当時はコンピューター創生期の頃で、教科書もなければ技術的な解説書も無かった時代だったわけですが、NCRには基本コンセプトの説明されたタイプ打ちの書類があったのです。私が勉強を始めるのにこれはとても役に立ち、NCR304のプロトタイプの基本プログラミングがどのように行われたのかを短期間で学ぶことができたのです。

UCLAで再び大学生活を始め専攻を物理学に変更

 NCRで働いた後、すぐに私は大学に戻って学位を取得する必要性を感じました。そうすれば、コンピューター・エンジニアになれると考えたからです。1957年秋の新学期が始まろうとする時、自分から会社と交渉して大学に戻る許可を取りつけ、同時にNCRでパートタイムで働く許可を得たのです。1957年9月、私はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で再び大学生活を始めることになりました。しかし、NCRの数人のエンジニアを見ていると彼らは物理学の学位を得ていることがわかり、私も専攻を物理学に変更することにしたのです。元々専攻していた工学部は大学の144単位が必須だったのに対して、物理学部は120単位で済むことも主な理由のひとつでした。

 私はNCRで働き、陸軍予備隊へ入隊して6ヶ月間の兵役生活を送る1959年初頭までUCLAで学び続けました。1959年9月初旬に陸軍から戻り、ラッキーなことにUCLAの近くにある小さなデジタル機器を専門とする企業でパートタイムの職を得られたのです。NCRはUCLAから車での通勤で45分も掛かることから考えると、私にとってこれは好都合だったわけです。

     


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