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トム・オーバーハイム
Retina Display Ready

Oberheimは、MOOGとともに誰もが知っているシンセサイザーの代名詞。しかし、Keyboard誌での連載やドキュメンタリー映画等を残したボブ・モーグ博士に対して、トム・オーバーハイム氏が如何なる軌跡でそのオリジナリティ溢れるエレクトロニック・デバイスの開発に着手し、今もその歴史的なサウンドで数多くのミュージシャンを魅了する「オーバーハイム・シンセサイザー」の製品化に至ったのかはあまり語られていない。また多くの人々は、彼がMMA(MIDI Manufactures Association)の第1回会議の議長としてライバル関係だった米国各社を取りまとめ、今日のMIDI発展の礎を築くべく奔走した人物だったことも知らないかもしれない・・・。そこで、エムアイセブンジャパンでは、トム・オーバーハイム氏の書き下ろしによる「自伝」を掲載。モーグ博士が鬼籍に入られた今、電子楽器、電子音楽の世界における唯一の「語り部」であるトム・オーバーハイム氏による物語は、電子楽器愛好家、電子音楽愛好家、音楽ファンにとって貴重なノンフィクション・ストーリーとなるでしょう。

        

アバカス社での多くの経験がオーバーハイム・エレクトロニクス社で優位に

—— コンピュータの仕事
 アバカス社【Abacus Incorporated】という名の小さな会社で得た仕事はプリント基盤設計の製図で、NCRで行っていたことにとてもよく似ていたのです。この会社は元ヒューズ・エレクトロニクス【Hughes Electronics】のデジタル・システムエンジニアである2人によって設立され、南カリフォルニアのエリアで初めてデジタル・システムに関するコンサルティングを始めた会社のひとつでもあったのです。コンサルティングを行うことに加え、会社は一連のデジタル・ロジック・モジュールの製造販売を行うことが決定しました。これらのモジュールにはそれぞれ異なるサイズのロジック・ゲートが含まれ、それはレジスターやトランジスターから構成されていました。その当時「NANDゲート」という造語がまだ出現していなかったため、このゲートは「シェファー・ストローク(Sheffer Stroke)」ゲートと呼ばれていました。その回線にはフリップ・フロップ・モジュールとタイミング・モジュールをも内蔵するものでした。これらデバイスを備えた完全なデジタル・システムを構築することが可能となった訳です。モジュール回線が開発されるにつれて、小さな製造ラインの設営といった仕事や会社の製品カタログのデザインなどの仕事も与えてくれるようになりました。

 1959年秋のある日、私の生活は一変しました。その当時の私は職業といった観点からすれば基本的に一介の製図技師でしかなかわけです。アバカス社での上司は米・JPL【ジェット推進研究所】からデジタル・システム設計の仕事を請け負った際に、私を「即席エンジニア」にさせてくれたのです。それもそのはず、会社に在籍するエンジニアはみんな他のプロジェクトで手一杯だったからです。請負契約書にはタイミング・チャートと呼ばれるいくつかの設計図とかなり粗削りな説明が記載されているだけでした。その提出された書類を見た私はパニックに陥いりました。というのも、そこに記載された情報はまったく筋が通っていないとすぐに気づいたからです。会社が作ったロジック・ゲート・モジュールがどう作動するのかを基本的には知っていましたが、完全なシステムとするためにどうやって接続しようとしているのかがわからなかったのです。それに続く2、3週間、死に物狂いで仕事に没頭しました。フリップ・フロップからどうやってカウンター(計数装置?)を備え付けるのかも理解しましたし、またタイミング・チャートを理解し、ついにデバイスに必須のアルファ・ニューメリック・ディスプレイのプログラミング・ソースを見つけ出したのです。そのデバイスは初期のタイムコード・ジェネレーターであり、おおむね顧客の希望した締切り期日までに納品することができたのです。

 アバカス社ではロジック・デザイン・エンジニアとして数多くのプロジェクトに関わり、そこで5年ほど働きました。その間にアバカス社の全製品に使われているメカニカル・パッケージングの設計にも携わることができました。このような多くの経験は、後に私が最初に設立した会社であるオーバーハイム・エレクトロニクス社で活用することができたのです。アバカス社での仕事は私にとって夢のような仕事でした。UCLAでひとつかふたつの授業に出席した後にアバカス社に戻り、そこで数時間働き、また必要があればUCLAでの授業を受けるために戻ることができたからです。アバカス社はUCLAから20分ほどのところにあり、その当時の私はスクーターで通学していたのでUCLAのキャンパスの中でも私の授業が行われるクラスのすぐ傍に駐車することができて便利でした。

1966年にUCLAで応用物理の理学士学位を取得

 私はほぼフルタイムで働いて自活しなければならなかったので、UCLAでは物理学の学位を得ることにじっくり腰を据えて取り掛かっていました。私が入学したのが1957年の秋。その後、一学期を陸軍の基礎トレーニングのために費やし、UCLAで最後の授業を受けたのが1965年でした。1965年頃にはUCLAもさすがに私をぶらぶらさせておくことはできず、ロサンゼルス・シティー・カレッジで学位を得るために必要な授業(イタリア語II)を最後に受けることができ、1966年に私は晴れてUCLAから応用物理の理学士(B.S.)学位を正式に得ることができたのです。

Tom Oberheim

 学位を得る1年ほど前だったと思いますが、職を変えてウエストL.A.にあるハネウェル社の一部門、コンピューター・コントロール社で働き始めました。この会社ではCODICアルゴリズム(CORDIC algorithm)を基にデジタル・システムのパーツを設計する仕事を与えられました。そのアルゴリズムは一般的には「デジタル・リゾルバー」という名称で呼ばれていて、この会社ではそれを用いて、2、3のシステムを既に開発していました。私の仕事は12ビットのアナログ-デジタル、12ビットのデジタル-アナログへ変換させるコンバーター・システムを、粗製のピンボード・プログラミング基盤とともに、上司が設計したコーデック・ハードウエアに内蔵させることでした。CODICアルゴリズムで稼動するハードウェア・システムをデバッグすることはたいへんな困難を伴うものですが、前任のエンジニアは既に会社のDDP-24コンピューター上で稼動するシミュレータを設計していたのです。私の仕事はこのシミュレータの精度を上げることで、この経験によって代表的なミニ・コンピューターのプログラミングやASR-33テレタイプからアセンブラがロードされるのを待つ何時間ものすばらしい時をもつことができたわけです。

 システムが完成して顧客に納品する際に(デジタル部門を設計した上司もそう考えたかもしれない)、私たちはアラバマ州ハンツビルにあるNASAへ納品に行ったのです。それは私たちにとってUCLAでもっとも難しいセメスターのひとつを過ごしている時期でしたけど、ハンツビル滞在は一週間かそこらですし、ハンツビルへの出張で授業を休んでもうまくやれると思ったからです。NASAの施設に到着するとシステムは顧客のハードウエアに統合されます。私たちはすぐに気がついたのですが、NASAのハードウエアがCORDICハードウエアによって処理されるある特定の数字を基にして正常に動作しないことがすぐに見てとれたのです。ハンツビル滞在は結局6週間にも及び、そのなかには顧客が製作して貸し出してくれたミニ・コンピューターにシミュレータを走らせるため、プログラムのリライティングで費やしたハンツビルのモーテルで過ごした数多くの長い夜も含まれています。そのシミュレータ・プログラムのおかげで、私のボスが原因のハードウエアのバグも修正することができ、帰路につくことができたのです。

     


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