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トム・オーバーハイム
Retina Display Ready

Oberheimは、MOOGとともに誰もが知っているシンセサイザーの代名詞。しかし、Keyboard誌での連載やドキュメンタリー映画等を残したボブ・モーグ博士に対して、トム・オーバーハイム氏が如何なる軌跡でそのオリジナリティ溢れるエレクトロニック・デバイスの開発に着手し、今もその歴史的なサウンドで数多くのミュージシャンを魅了する「オーバーハイム・シンセサイザー」の製品化に至ったのかはあまり語られていない。また多くの人々は、彼がMMA(MIDI Manufactures Association)の第1回会議の議長としてライバル関係だった米国各社を取りまとめ、今日のMIDI発展の礎を築くべく奔走した人物だったことも知らないかもしれない・・・。そこで、エムアイセブンジャパンでは、トム・オーバーハイム氏の書き下ろしによる「自伝」を掲載。モーグ博士が鬼籍に入られた今、電子楽器、電子音楽の世界における唯一の「語り部」であるトム・オーバーハイム氏による物語は、電子楽器愛好家、電子音楽愛好家、音楽ファンにとって貴重なノンフィクション・ストーリーとなるでしょう。

        

汎用性のあるコンピューター設計に強い興味を抱く

 アラバマを留守にしたことや授業を6週間も欠席してしまったことは私のアドバイザーにとって最後の一撃となってしまったようで、そこで私は大学から退学させられるはめになってしまったのです。1965年秋、必要な最終の単位をジュニアカレッジで取ることをこの女性アドバイザーは許可し、1966年に私はやっと卒業証書を手にすることができたのです。応用物理学、理学士、カリフォルニア大学ロサンゼルス校!

 コンピューター・コントロール社で私はかなり頻繁にあるヘッドハンターの攻勢に悩まされ続けました。その頃(1965年から1966年)、デジタル・システムのビジネスは急成長を遂げ、デジタル・システム・エンジニアに対する健全な要望といったものがあった時代です。CODICシステムがプログラムされたピンボードの仕事をやり遂げてしまっていたことから、一般的なデジタルvコンピューターのハードウエアがどのように作動するのかといった基本的なアイディアを理解することができたのです。その頃から、自分のシステムを設計したい!と強く望むようになったのです。そこでこのヘッド・ハンターから電話がかかってきたときに、私は汎用性のあるコンピューターの設計をする職に強い興味をもっていることを伝えました。これが彼からかかってくる最後の電話になると私は思いましたが、驚いたことに1966年の秋にヘッド・ハンターから電話がかかってきて、私の希望する職があると言うのです。

 この新しい仕事はニューポート・ビーチにあるマーシャル・コミュニケーションズ社でのものでした。この会社はニューポート・ビーチにあるコリンズ・ラジオ出身の3人の役員によって設立され、最新鋭のさらに上を行くデーター・コミュニケーション・システムを開発する計画をもっていました。そこで私はコントロール・システムとなるコンピューターのハードウエアを設計するために採用されました。そのマシンの論理構成は私と2人の同僚エンジニアだけで何とかすることができたし、それはコア・メモリを基にしていました。

 インストラクションやデーター・ワードは24ビットの長さで、そのなかには指標レジスタや間接アドレス指定が含まれていました。経営陣は、ちょうど出始めた最新のLLT【トランジスター-トランジスター論理回路】は非常に高価なため、私はDTL【ダイオード・トランジスタ論理回路】で設計するように強いられていたのです。

 1968年が明けてしばらくするまで私はマーシャル・コミュニケーションズ社で働いていました。汎用性コンピューターの設計に加え、アンペックス・デジタルテープ・ドライブやディスク・ドライブ用のコントローラーの設計も行いました。ただ、私のなかでウエストL.A.エリアに戻りたいという気持ちが強くなっていたある日、南カリフォルニアIEEEブリテンボードに掲載された「ベルエアでコンピューター設計をしませんか」という広告に目が留まったのです。

 その広告を掲載した会社を経営していたのはジャック・スキャントリンという名の男でした。ウエストL.A.で成功を収めた会社を数年にわたり経営し、株式市況を流す設備機器の分野にも進出しようと決めていたところで、それを実現させるにはコンピューター設計エンジニアを必要としていました。しかし、彼が最初に必要としたものはペーパー・テープ用パンチで、彼の所持するバリアン・データ620iと繋がるライン・プリンターでした。そこで彼はRTL【レジスタ転送レベル】ロジックを使うように私に強要したのです(それはDLTよりももっとお粗末な代物)。

 2週間ほど経つうちに私は2つのインターフェースの設計/製作をしました。それはスキャントリン氏をいたく印象付けたようでした。ある日の朝、彼は会社にやって来ると、製作しようとしているコンピューターの論理構成すべてをうまく機能させるようにと言うのです。私の理解では構成部分やハードウエアの設計に参加することだと思っていたので、憤慨して翌日その仕事を止めてしまったのです。スキャントリンの元では合計3週間の勤務となったわけです。

 私が得た次のコンピューター職はサンフェルナンドバレーにあるコンパータ社というコンサルティング会社でした。コンサルティングの仕事のひとつとして、私は真冬のミシガン州のアナーバーに派遣され、そこではすばらしい人々との出会いがありました。また、コンパータ社は私をカリフォルニア州カルバーシティーにあるヒューズ・エアクラフト社へも派遣し、そこにはアナログ-デジタル・コンバーターのロジック設計で3ヶ月ほど滞在しました。実際のところ、設計には1時間半しかかからなかったのですが、残りの時間はぜんぶ会議に費やされてしまったのです!

エレクトロニクスに興味を持つドン・エリスへアンプやいろいろな機器を製作

 UCLAの学生最後の日のこと、現代音楽を専攻する同窓生の一人が優れたトランペット奏者であり、バンドリーダーのドン・エリスと出会ったのです。私たちはすぐに意気投合して友だちになりました。私は彼の音楽が好きだったし、彼はミュージカル・エレクトロニクスに興味を持ち始めていた頃だったからです。1966年、私はドンのためにアンプを製作し、その後にはいろいろな他の機器を製作してあげていました。時を同じくして、ドンはクラウンのテープレコーダーを手に入れると、ハリウッドで毎週月曜日の夜恒例のリハーサル・バンドの演奏を録音してくれないかと私に頼んだのです。その頃ヨーロッパ・ツアーに出かけたドンはゼンハイザーのMD421マイクロフォンを8本手にして戻ってきました。私は小型マイクロフォン・ミキサーをいくつか手に入れていたので、月曜日の一夜のギグを録音し始めたのです。ライブをモニターする実用的な方法もなしに私は録音を余儀なくされたわけですが、手探りでかなりイケてるレコーディングをすることができたのです。

 1966年、ドンはバンドをさらなる高みへと引き上げ、モントレー・ジャズ・フェスティバルで演奏できるまでに力を注いだのです。そして、1967年にコロムビア・レコードの「エレクトリック・バス」のために行ったバンドのクラシックなレコーディングで彼は大ブレイクすることになったのです。彼のワーキングバンド仲間となるような、若い才能を開花させようとする惜しみない努力の中で、ドンは新しいリハーサルバンドを発足させました。ドンはそれをBバンドと呼んでいたと思います。ハリウッドにあるコロムビア・レコードのリハーサル・ホールでこのバンドのリハーサルが行われました。バンドのメンバーの多くが学生で夏休みはみんな帰省してしまうから、私はコロムビアのリハーサル・ホールで録音するようにとドンに頼まれたのです。そんなことからBバンドの最後の2回となるリハーサルのなかで、私はドンのレコーディング機材のすべてをコロムビア・レコードに運び込み、録音しなければならなかったのです!またもや、モニターする手立てはまったくなかったので、バンドのリハーサルではそれぞれのマイクを一度に1本だけスイッチを入れ、そのレベルを6db程度にセットし、レベル設定を注意深く観察し、そして最後に元のレコーディングのテスト・レベルに設定を戻すようなことを行いました。実際、このレコーディング方法でかなりうまく行ったのです。でも後に私がそれをやったことがばれてしまい、ドンのコロムビア・レコーディング・エンジニアはカンカンになってキレてしまったのです。

[続きは後日...]
     


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